なぜ、あの日傘を忘れたのか。


雨の多いあの時季に傘を忘れたのは、
今から思えば運命のようだった。

そんなことを人に言ったらバカにされるだけだろうから
心の中で呟くだけにしておくけど。




その日は学校の見回り当番だった。

見回り当番の仕事が済んだ後は、
学校の最終下校時刻を回っているような時間となるので
そこには誰もいない。

普段なら、雨が降っていても友達の傘に入れてもらって
何とかなるのだが今日ばかりはどうにも出来ない。

何せ、校内には先生以外人っ子一人いないようだし、
傘なくしては歩けなさそうな雨である。

止まないだろうか、などという淡い思いを胸に
昇降口の廂の下から空を見上げた。

ひたすらに、しとしとと絹のような銀糸を紡ぐ様子は
趣を持って見れば大層心惹かれるものなのかも知れないが、
今はそれどころではない。

びしょ濡れになるとしても早めに走って帰るべきか、
もう少し待って様子を見るべきか。


私は頭をフル活用してどうしようか考えあぐねていて、
後ろに立っていた人の存在に気付いていなかった。


「…雨か。」


突然耳に飛び込んだ声にぱっとそちらを振り返った。

そこには、クラスメートでありながら、
その様子から一度も話したことのない男子生徒が立っていた。


「…お前、傘持ってねぇのか?」


少し馬鹿にしたような言葉、視線、態度。

蛇に見込まれた蛙になったような心持ちがしながらも、
それに臆しないように、何とか平静を保って答えた。


「まぁね。」

「こんな時季に傘も持ち歩いてねぇのか?」

「今日はたまたま家に忘れてきただけだよ。」


興味ない、といったふうに「そうか」と答えた彼は、
一歩前に踏み出して、私の隣に立った。

地面に打ち付けられた雨粒が
跳ね上がって制服の裾を濡らす場所なのに、
と心の中でぼやきつつも何だかそれは言えなくって押し黙った。


「…そっちは?」


帰り支度も万端な様子で空を見上げている彼に
素直に疑問を向けた。

彼はこちらを見ずに答えた。


「車の運転手がここまで来るのを待ってるだけだ。」

「…傘、ないんだ?」


茶化すような言葉に彼は視線を向けてきた。

それは初めは意外なものを見たかのような目だったが、
私を見据えた後に、微かに笑みを映した。


「忘れたわけじゃねぇけどな。」



今まで、近くで見たことが無かった。

この跡部景吾と言う男はあまりにも遠すぎる存在だった。

だが、こうして手を伸ばせば触れられるほどの距離で
目線だけを交わしながら話してみると、
彼を本当にクラスメートなのだと感じられる気がする。

何故かはわからない。

態度も雰囲気もいつもと変わらないはずなのに。


でも、遠すぎる存在には感じられない好感を
彼に対していつの間にか抱いている心がある。

そんな感情を抱いてしまっていたことに気付いて、
慌てて自分を誤魔化そうとする。


「傘持ってないなんてちょっと親近感…。」


ぼんやりと思ったことを、口にしていた。

はっきり言って庶民である私が彼に"親近感"などと言って
怒っているだろうかと恐れてさりげなく彼を見た。

予想外にも、彼は遠くを見て微笑んでいた。

そんな彼の瞳に何が映っているのか気になって
彼の視線を辿ってみたけれど、やっぱり庶民であるせいか、
私にはその先のものが見えなかった。

さきほどと変わらない絹糸の吹流しが絶え間なく流れていただけ。


「今更親近感、かよ。」

「…だって、跡部だし。」


その時、私達の前に、黒塗りの車が一台横付けされた。

見事な運転で寸分のズレもなくぴたっと止まると、
運転席からは一人の男が出てきて
彼の前の車のドアを開け、濡れずに乗れるよう傘を広げた。

彼は何も言わずに車に乗った。

だが、男がドアを閉める前に手でそれを静止した。


「その傘、貸してやるよ。」


彼の指示に従って男は傘を差し出してきた。

驚きながらも、反射的にそれを受け取ってしまった。


「今度、お前が傘を忘れた時は車に乗せて行ってやる。」

「…は?」


目を点にしていた私とは対照的に
彼はいつもと変わらない目でこちらを見てきた。

いつもは見下ろされるような角度なのに、
今は私が見下ろしている。

見上げるような彼の視線は見慣れなくて、新鮮。


「"親近感"だけじゃ乗せてやれねぇよ。」


彼の言葉に私は凍ってしまったようだった。

それを見届けた彼がドアを閉めてしまう寸前、
私はようやく動けるようになり、閉まりそうになるドアを止めた。


「…ねぇっ…それって期待して良いってコト?」


ドアに手を掛けていた私から彼までの距離は
想像以上に短くって、また凍りつく寸前。


「…お前次第だ。」


静かに車は発車する。

ドアに添えられていた私の手は空を泳いだ。

半開きだった扉の奥から彼の手が伸びて、
バタンと閑かな音を立ててドアは閉じられた。



微かな遠さを感じたのは、一瞬でも彼に近づいてしまったから。


今まで遠かった彼。

少し近づいた彼。


遠いあの日 彼に抱いていた感情が 変わる日は......






~・後書き・~
昇降口に直接車が止まるってどんな学校だ
…なんて書いてから気付いてしまいました(汗。
     ’07/06/08 (07/11/09再掲)